『 一会 』


相国寺様のお池の名残りの蓮も、とうとうおわりの時を迎えています。蓮の名前の元となった蜂の巣のような花の跡、それらが皆、南へ顔を傾けています。太陽へ向かう植物の本性が、枯れたような蓮にも見られて、これが自然というものなんだなと改めて感じさせられます。
たそがれ刻の蝉しぐれもすっかり影をひそめました。時折りツクツク法師が「 つくづく惜し、つくづく惜し」と鳴くだけ ―― 。でも今日あたりは、それももう聞けないかも知れません。季節はもうすっかり移っているようです。
「暮六つの読経」と私が勝手に名付けている、たそがれ時の鐘楼からの読経の声が、今までよりよく響くようになりました。時たま、おそらく新米さんの雲水さんなのか、たどたどしいお経の聞こえる事もあり、何かと心楽しませてもらえるひとときです。
以前、それこそまだ鐘楼の上でもお経もろくに読めないような新米さん(多分)が居られて、言葉につまりつまり可哀想なような時がありました。先輩にこずかれこずかれされているんだろうなと思えるお経です。鐘楼から降りて来られる姿をみていると、まず作務衣姿の先輩僧らしき方が降りて来られ僧堂の方へスタスタと歩いて行かれました。一寸間を置いて、黒染めの色も鮮やかな真新しい衣を着た方が降りて来られました。急いで鐘楼の鍵をしめ、先輩僧の後を追うその方に思わず声をかけました。「いいお経でしたよ」 ―― 。ドキッとしたような雲水さんに、「心がありました。すらすら流すだけのお経より、ずっと良かったですよ」―― その方は深々と頭を下げて先輩僧の後を走って追っていかれました。「いいお坊さんになって下さるといいな」―― その後姿に思わずそうつぶやきました。
たそがれ時の相国寺様ではいろんな事に、いろんな時に出あえます。いつもいつも私にとって大切な、心うるおうひとときです。