『見えるもの、見えないもの 』

三寒四温という言葉があてはまるのかどうかわかりませんが、本当に日々の気温の変化にふりまわされます。自分では気づかなくても必ず体は無理をしているそうですから、なるべく逆わず、がんばってる心身を労わってやりましょう。

それにしても春というのはやはりいい季節ですね。冬の間は枯れたような木にも新芽がちょっぴり乍ら芽吹いています。古枝の先には今年新しく延びた枝が、初々しい紅色を帯びて、大空を目指しています。枯れたようだった柳の枝も、ずい分緑の感じに染まって来ました。小鳥たちの声も心なしか艶めいて聞こえます。間もなく訪れる「春」にむかってあらゆる生命がぐんぐんふくらんでいるのを感じます。

春の公演「愛」の稽古も徐々にすすんでいます。今年も三人の児童が出演しますが、いつも乍ら、子供の純真さ、純粋さに心をあらわれています。よく見かける大人子供のような、或る意味世間ずれした子役といわれる人たちとは一味も二味も違う、本当に子供らしい子供たちです。稽古に入る前の「洗心」(白紙の心で稽古にのぞむ為)、そして全員への挨拶からはじまって、終っての「洗心」、先輩たち一人一人への礼、そして自分たちの使ったものは自分で片づける(おざぶとんやお湯のみなど) 彼や彼女らの姿に、時折見学に来られた親御さんは目を見張ってられます。「お家ではしないでしょうね」といいますと、「しません、しません」と手をふっておっしゃいます。でもそれでいいのです。いつか塾でやっている事が役に立つ時が必ず来ます。そして塾でのしばらくの生活が、彼や彼女の人格形成に少しでもプラスになってくれれば、これほど嬉しいことはありません。

毎年、子供たちにいやされ、励まされ、反省させられ乍ら、大人の人たちもがんばっています。
認知症の人物に生きる女性は、「いつも身近で見ているのに、さてとなると手も足もでない」となげいています。(彼女は介護の仕事もしています)。
人間、常に見ているようで見ていないものが本当に沢山あります。建物一つでもこわされて新地(さらち)になった場所を見て、「あれ、ここ以前どんなところだったのかな」と考えますが、まずわかりません。ものだけでなく、見ていないもの、見えていないものが本当に沢山あって、自分の貧しさにいつも悔しい想いをしています。折角神さまにいただいた眼をしっかり見開いて、世の中のことを少しでも沢山(見えないものも含めて)、汲みとりたいものです。

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『 鞍楽ハウディにて 』

草藁生活行も無事におわり、いよいよ春の舞台に向けてダッシュ ―― というところなのですが、実はこの二月十八日(土曜日)に、烏丸鞍馬口にある鞍楽ハウディで小さな発表会を持つことになりました。「絵本の読み聞かせ」や「紙芝居」又、一寸した「ゲーム」など、お客さまも一緒に楽しんでいただけるものです。午前十一時半と、午後一時からの二回公演です。
よろしければお気軽に、皆さまにも御来駕、御参加いただけるとうれしいと思います 。
鞍楽ハウディさんとは長いおつきあいで、かつてうちの児童部に通っていたハウディのお店屋さんの女児が、今は立派なお母さんになって鞍楽ハウディのお店の女主になっていたり、かつてふさふさした髪の方が少し淋しくなってられたり(失礼) ―― 。でもそれだけの年月、お互いに愛着は深くなっています。
一寸した発表会も何度かやっていますから、お客さま方の中にも「あっ、以前にもやったはったなぁ」といって下さる方がきっといらっしゃると思います。しばらくぶりの再会 ―― そんなたのしみもある心あたたまる発表会です。
お近くの皆さまも、少し遠方の皆さまも、ぜひぜひ足を運んで下さいますように。
心よりお待ち致して居ります。
一人でも多くの皆様と、お出会い出来ることをたのしみに ―― 。

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『美しいもの』

相国寺様の池に、少し前から鷺が住みついているようです。時々大きな声で鳴くのですが、それがなんともいいようのない悪声なのです。同じならもう少しいい声に生まれればよかったのにと可哀想に思うほどです。
それにしてもどうしてこんなにいろいろと姿形(声も含めて)に違いがあるのでしょう。
「美しい」と感じてもらえるものは幸せです。個々の主観に多少の違いはあっても、洋の東西にかかわらず、美しいと思うものと思わないものは共通しているようです。建造物にしろ絵画にしろ彫刻にしろ、どの国のものも美しいと評価されているものはやはり美しく感じます。
誰が見ても美しいものを美しいと感じられるのは、何を基準にそう感じるようになっているのか不思議な気もします。
でもそんなつまらないことを考えるより、素直に感じるままにうけ入れるのが自然なあり方でしょう。たまに、どう見ても美しいとか可愛いとか感じられないものをペットとして飼われたり、好きだという方も居られるのですから、ま、十人十色、いろいろあってこそ、世の中はたのしいのかもしれません。宗教にもいろいろありますが、元はといえば全て人間が生み出したものです。どんな宗教の方でも、又、思想の方でも、親や子供など愛するものを失えば悲しいし、愛する者が幸せであってくれれば自分も幸せだと思います。だからこそ普遍的な人の感情、心を描く演劇や芸術は世界共通、名作は名作として受け入れられ、生き続けているのでしょう。

「人間誰でも、一生に一作ぐらいは名作といわれる作品(小説や脚本など)が書ける」と聞いたことがあります。
「素人は好きな時に好きなものを書けばいい。だがプロは、沢山の制約(時間とか回数とか経費とか)の中で、書き続けなければならない。それも「いい」といわれるものを。それが出来てはじめてプロだ」とも ―― 。それはその通りですが、では好きなものを好きな時に書けばいい人がいい作品をつくれるのかというと必ずしもそうでもないようです。
ただ、こんな理屈にもならないことをひねくりまわしている暇に、なにか「生産」をしなければ、この世に生きている価値もありますまい。人の悪口をいうのは、暇をもてあましている人間だとか。生産につながる暇というのはどうやら存在しないようです。

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『 年の尾 』

十八日の発表会は、直前に風邪引きが続出し、稽古がまともに出来ず惨憺たるありさまでした。
それでも皆さま最後まで御観覧下さり、本当に有難く、又、申訳ない思いをして居ります。深くお詫び申上げます。

俳優は頑健でなければならない。一人でも欠けると全員に迷惑をかけるということは、充分承知している人たちです。それがこの状態なのですから、いいわけのしようがありません。
重ねて心よりお詫び申上げます。申訳ございませんでした。二度とこんなことをくり返さないよう、改めて心を引き締め、来たるべき年に向かいます。どうぞ御寛恕いただけますように。

来年の春の小さな劇場公演の題名は「愛」です。どんな中身なのか、又あらためてお知らせ申し上げます。

混沌たる現代(いま)の世の中が、鶏鳴一声、明るい新しい夜明けとなることを祈ります。どうぞ 佳い お年を ―― 。

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『 雪 』

珍しく京都に雪が降りました。
般若林は一面銀世界。他所よりここは降った雪が溶けにくいのです。つもり方も街中とは少しちがいます。車が走るせいでしょう、通りのまん中はきれいに溶けています。道ばたには未だ雪があってぬかるんでいますが、般若林はきれいに雪が残っています。人の歩いたあとだけが、黒く点々と形をのこして。

以前、玄関の屋根から落ちた雪で沈丁花が折れて枯れてしまいました。苦労して、一本に赤と白の花が咲き分けてくれるよう、接木して大切に育てていた木でしたのに。それからは決して屋根のそばに物を置かなくなりました。雪の少ない京都ですから、屋根の雪くらいで木が折れるのは不思議と思われる方もおいでかと思いますが、般若林の玄関はとても立派で、大きいのです。昔は禅門専門学校といって、雲水さんに成られる方々の前段階の修行の場だったそうです。それだけに全てがお寺さんのように立派で大きいのです。天井も普通の家よりは高いですし、間取りもゆったりしています。自耕自作が出来る土もあります。あるというより般若林自体が土の上に建っていて、土のある生活がたのしめる素晴らしくぜいたくな場なのです。今どきの街中で、これよりいいところは御所くらいかなと、いつも皆で話しています。
今も窓の外は雪、々々 ―― 。しんしんと降っています。あまり積もって、事故など起きませんように。

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『 ご挨拶 』

明けましておめでとうございます
皆さま、よい新年をお迎えになられたことと存じます。
好天に恵まれたおだやかな新年でしたが、世界を見廻すとき自分たちのことだけを喜べない現実が渦まいて居ります。一日も 一刻も早く、世界中の平和をよろこべる秋を迎えられることを心から祈ります。

おさだ塾の塾生たちは今 二月十一日の草藁生活行(上賀茂から奥貴船まで歩く、おさだ塾恒例の寒中行事です。又、その日、一年の計画を発表したり、いわば塾の年度始めでもあります。)の時に発表する課題に取り組んで居ります。塾生の斉藤浩未がたのしい台本を書いてくれましたし、他にもそれぞれが課題を選んで鋭意勉強中です。新年気分にひたれる余裕はまずありません。でもそんな生活が楽しいのですから、やはり世間の方々から見れば演劇をやる人間は「変り者」かも知れません。

どうぞ 又 今年もよろしく御叱正、御鞭撻下さいますように。

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『今という時』

私どもの塾では、入門を希望する人に対して審査を行う。といっても落す為ではない。その人がどんな人なのかを知る為の審査である。

人間、一人一人顔が違うように、持っているものがみんな違う。知性も教養も学力も、人柄も情緒も肉体条件も生活環境もみんな違う。その違う一人一人に画一的な教育方法をとっても決して同じようには育たない。まずはその人がどんな人なのかをよく知って、はじめて、その人に適った教育方針が立てられるのである。故に審査は慎重に行う。そして入門を認めるということは、その人を伸ばす使命を、責任を、我々が負うことなのである。
お茶碗とか、道具とか、は、作る過程で失敗しても作りなおしが利く。捨てることも出来る。だが人は、作るのに(育てるのに)失敗したからといって、やり直すことも捨てることも絶対に出来ない。失敗することはその人の人生を奪うことになりかねないのである。だから、私どもの審査というのは、入る人よりも、むしろ指導する側の人間が、この人を育てられるかどうか、自らをはかる審査でもあるのである。

ところで、このことに限らず、世の中には取り返しのつかないことが沢山ある。「このくらい、このくらい」の無理の積み重ねが大病につながったり、一時の感情で人を傷つけてかけがえのない友情を失ったり ―― 。中でも、決して取り返せないのが「時」である。「今」という時は二度とかえって来ない。人と食事をする時も、友と語らう時も、今、こうして何かを書いている時も。 そう思うと この「ひととき」が無性にいとおしく、悔いのない「時」のつみ重ねをせねばとしみじみ思う。
二度とは来ない「平成二十八年」。さまざまな思い出をくれたこの年も、余すところ一月余となった。この年のしめくくりを如何になすべきか ―― 。時の過ぎぬうちに答えをださねばなるまい。

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『小さな小さな発表会について』

何をやるのか私どもも知らない発表会(十二月十八日・日曜日/十四時半から十六時半まで)ですが、どうやらその折りに日舞(といっても、「町かどの藝能」に必要な動き、しぐさ、日本の立居ふるまいの為というのが主目的です)の稽古発表をするようです。習っては中断、習っては中断で、なかなかまとまった稽古が出来ず、今年の春から又再開した日舞の稽古ですが、何しろ月一回の稽古です。おまけにその日に出席出来ない塾生もいたりして、先生には本当に迷惑をかけています。それを半ば強引に、無理をいっての発表ですから、どんなものになるか申訳ないようななりゆきです。でも「精一杯やる」のが身上の塾生たちですから、きっとがんばってくれると思います。

といいますのも、昨年の「町かどの藝能」公演の写真を撮って下さったお客様の中のお一人が、うちの人たちの様子を「精一杯演じる心意気」と題してコンクールに出品なさいました。そして見事「日本一」に輝やかれました。藤本裕紀様です。たしか富士フイルム主催のコンクールです。記念にその写真をいただきましたが、それを見た一人の感想 ―― 「ウヮッ、ちゃんと指先が伸びていてよかった」―― 。

でも本当にいい写真です。発表会当日も皆様に見ていただきたいと思っています。

又、梶田明子が何か本を書いているらしく、皆がそれをることをたのしみにしています。
来年二月の「草藁生活行」(塾の年度始めです ―― 上賀茂神社から貴船まで、草鞋履きで歩き、そのあと小さな発表会を持ちます)での脚本(かどうかわかりませんが、何かを)斉藤浩未が書く予定らしいです。今の世の中と同じく うちも女性陣のがんばりが多いようで、たのもしい限りです。

男性陣、がんばれ!!

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近況

愛らしい黄色い小菊があちらこちらに咲いています。
いっときは、よく樹上から落ちて来た花梨も、近頃は少し落ちなくなりました。下にあった車の天井がへこんだこともあり、うっかりその下を歩けない花梨です。というのも、花梨はとてもとても固い果実なのです。花梨酒にするととても美味しいのですが、切るのが大変で、毎年見送ってしまいます。以前は相国寺様の僧堂のお方が、時々花梨を持っていって下さってましたが、近頃はお見えになりません。以前の御師家様のように、花梨を好まれるお方がいらっしゃらないのでしょうか。夏の初めには可憐なピンクの花を咲かせてくれる、とても風情のある花梨の木です。

今、般若林の西側は入口から裏庭の端まで五十間もの間、ずっと工事中のフェンスがはりめぐらされています。お隣の烏丸中学さんとの境界の塀が改修されるのです。私どもの秋の「町かどの藝能」公演がすんでからと、待ってて下さったそうです。「町かどの藝能」の公演中にはチャイムの音を低くして下さったり、烏丸中学校様にはいつも好意的に受け容れていただいています。御近所の方々も、稽古でやかましくして申訳ないと思って居りますのに、反対に「たのしませてもらってます」といって下さったり、公演当日のお天気を、我が事のように気づかって下さったり、本当に囲りの皆さまに支えられ、助けられ、可愛がっていただき乍らの、感謝 感謝の日々です。

この十一月十二日(土)には向日市の長岡宮遺跡で小さな公演をいたします。遺跡の前に新しく「絵灯籠」を お作りになった、その点灯式のお祝いです。地元の皆様の熱いお心に応えられるよう心して行って参ります。

十二月十八日には恒例の塾生たちだけで、何をするのかを決めて、稽古をして、近しいお方に見ていただく小さな小さな発表会を持ちます。何をするのか、私どもには分かりませんが、けっこういつも自分たち(塾生)は楽しんでいるようです。来ていただくお客さまには御迷惑かも知れませんが・・・・。どうかあたたかい目で見てやっていただきたいと思います。又、後日、もう少しくわしくおしらせいたします。どうぞよろしくお力添え下さいますように。

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庭の石

秋の深まりと共に、京都を訪れる観光客はいよいよ多くなる。有名寺院や名所旧蹟はいわずもがな、近頃は京都人も知らないようなところへの方たちが沢山おいでになる。お陰で京都の歴史や伝統を改めて見なおしたという人もあるほどだ。情報過多といわれる時代の慮外の功績であろう。
京都はどなたもご存知のように盆地である。周囲を山にかこまれた京都は、夏はむし暑く、冬はしんしんと冷え込む。住む者には酷しい気候条件だが、反面そうした地形が素晴らしい庭園美を創り出してくれた。その最たるものの一つが借景である。周りの山々を実に巧みに我が庭園に取り入れている。庭の木や石、塀、そしてそれらの背後に望見する山脈 ―― その調和の美は万人の識るところである。
かつて我が師はよく門下生を連れてそうした寺院へでかけられた。そして庭を眺めながら、こんな話をされた。
借景の庭の小さな石 ―― その下には何十倍もの大きさが埋まっている。表に出ているのは、そのほんの一部でしかない。いわば氷山の一角なのだ。地面の下の、見えない部分の支えがあるからこそ、あんな小さな石が、大きな山を背景にしても負けないだけの力、重さがあるのだ ―― と。
演劇も同じである。表に出ている部分 ―― つまり舞台の上での生活を展開する為にはその何十倍ものの生活 ―― その人物の舞台上以外の生活 ―― を踏み込まなければならない。その支え、裏打ちがあってはじめて、いい舞台は成り立つ。
又、このことは演劇に限らず、他のあらゆるものごとに通ずる。いい仕事、すぐれた仕事をする人は必ず、どこかで、目に見えないところで懸命に己をふとらせ、充実させる努力を続けているものである。
庭石を通して教えられた不変の真理は、よき師に恵まれた幸せと共に、常に我がうちに生きている。

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