月別アーカイブ: 2017年9月

『 雨降り 』

午後から降り出した雨が、今も静かに降り続いています。
ゴボッ… ゴボッ… 建物と雨が作り出す規則正しい小さな水音が聞こえるだけで、時が止まってたように静かな般若林。今日は稽古も夜までなく、皆、それぞれに外廻りやチケット販売の為に出払っているのです。
こんな静かなひとときは ほんとに稀で、別の世界に来た感じです。久々の本格的な雨降りで、庭の木や草はぐんぐん水を吸いこみ、嬉んでいるのを感じます。「自然はえらいねぇ」とおっしゃった百四才の高僧のお言葉が折りにふれてよみがえって来ます。お天気続きでも雨つづきでも、一言の不足もいわず、全てを黙って受け入れて、自らの生命を全うする木や草たち。

夏の間、チラホラしか花を見せなかった萩が、このごろになって沢山の花をつけ、大きな草叢になっています。般若林に来た当初、何年間も少しも大きくならず 花もつけず、土が合わないのだろうかとずい分心配しました。それがここ二、三年で見違えるほど大きな草叢に成長し、少しずつ花をつけてくれるようになりました。きっと知らない土に植えかえられて しばらくは様子をみていたのでしょう。そしてやっと、ここが自分の生きる場所と、心を決めてくれたようです。これからは年々、沢山の美しい花をつけてくれるようになるでしょう。

外は未だ雨 ―― 。しばらくは止まないようです。

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『 一会 』

相国寺様のお池の名残りの蓮も、とうとうおわりの時を迎えています。蓮の名前の元となった蜂の巣のような花の跡、それらが皆、南へ顔を傾けています。太陽へ向かう植物の本性が、枯れたような蓮にも見られて、これが自然というものなんだなと改めて感じさせられます。
たそがれ刻の蝉しぐれもすっかり影をひそめました。時折りツクツク法師が「 つくづく惜し、つくづく惜し」と鳴くだけ ―― 。でも今日あたりは、それももう聞けないかも知れません。季節はもうすっかり移っているようです。
「暮六つの読経」と私が勝手に名付けている、たそがれ時の鐘楼からの読経の声が、今までよりよく響くようになりました。時たま、おそらく新米さんの雲水さんなのか、たどたどしいお経の聞こえる事もあり、何かと心楽しませてもらえるひとときです。
以前、それこそまだ鐘楼の上でもお経もろくに読めないような新米さん(多分)が居られて、言葉につまりつまり可哀想なような時がありました。先輩にこずかれこずかれされているんだろうなと思えるお経です。鐘楼から降りて来られる姿をみていると、まず作務衣姿の先輩僧らしき方が降りて来られ僧堂の方へスタスタと歩いて行かれました。一寸間を置いて、黒染めの色も鮮やかな真新しい衣を着た方が降りて来られました。急いで鐘楼の鍵をしめ、先輩僧の後を追うその方に思わず声をかけました。「いいお経でしたよ」 ―― 。ドキッとしたような雲水さんに、「心がありました。すらすら流すだけのお経より、ずっと良かったですよ」―― その方は深々と頭を下げて先輩僧の後を走って追っていかれました。「いいお坊さんになって下さるといいな」―― その後姿に思わずそうつぶやきました。
たそがれ時の相国寺様ではいろんな事に、いろんな時に出あえます。いつもいつも私にとって大切な、心うるおうひとときです。

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