『このごろ』2

般若林の庭が色づきはじめました。DSC_0588
萩も黄色くなった葉をふさふさと延ばしています。
大きなカリンの木も黄葉し、時折り大きな黄色い実を落とします。うっかり木の下に車を置いているとボコンと屋根がへこみます。木の下に幾つか黄色い実がころがっています。とても香りがよく、ホワイト・リカーにつけると、喉にもよい美味しいカリン酒が出来ます。今は忙しいのと、とても実が固いので、作れずにいます。よろしければ塾へ来られてお持ち帰り下さったら、カリンの為にも嬉しいのですが ―― 。
山茶花も紅い花を沢山つけています。又、玄関脇の千両が、例年になく美しい赤い実をいっぱいつけています。白い小菊も咲いて、般若林はとても素敵なところです。
気候のせいか、楓の紅葉は未だですが、そのうちにあざやかに染め上がるでしょう。
種々と多忙な日々も、自然に一寸目をやるだけで、ほっと心が安らぎます。
十一月二十八まであとしばらく。ラスト・スパートの日々です。

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『このごろ』

日に日に秋も深まり、紅葉の便りもあちこちから届きはじめました。北の国では初雪、初冠雪の季節です。
般若林の庭の紅葉は未だ少し先、そのうちに赤・黄・朱・茶・樺、さまざまな色彩に染まります。干し柿
とはいえ、シデの紅葉はすでに始まっていますが ―― 。
そうそ、それに塾生の出入りする西入口の軒先に、渋い赤茶色の干し柿が吊り下げられています。裏庭の柿の木の恵みです。
以前にも何度か干し柿を作ろうとしたのですが、その都度ヒヨやカラスに食べられて、塾生たちの口には入りませんでした。鳥たちはとても利口で、実のなるものはいつも一番いい食べ頃に、ちゃんとついばんで食べてしまいます。「明日、丁度食べられると思っていたのに ―― 」と、いつも塾生たちがくやしがっていました。干し柿も例にもれず、いつも早々に食べられてしまいます。それでしばらくは止めていたのですが、何と思ってか、今年又、作りはじめたのです。そんな干し柿なのですが、今のところ大丈夫なようです。干す場所を南側から西側に変えたからでしょうか、鳥たちに見つかることもなく、柿たちは毎日のん気な顔でぶら下がっています。塾生の口に入る日も近いでしょう。

ところで塾生の多くは今、十一月二十八日の「京ことば講座」での京ことばのドラマに悪戦苦闘、首を上下にふったり、横にふったり、まるで人形芝居のようで見ているとおかしくなります。でもそのうちに言葉が身につくと徐々に人物の心をとらえて行きます。さしずめ今は過渡期でしょうか。
又、例年のクリスマス近くの「小さな発表会」、日どりが決まりました。
「十二月十九日(土)午後三時から五時まで」の予定です。
自分たちでやる中味を決め、自分たちだけで稽古をし、ごく近しい方々に見ていただく小さな小さな発表会です。大きな顔をして「おこし下さい」とはいえない未熟な発表会ですが、もしよろしければおこし下さい。

いつも自然に恵まれた般若林ですが、今はあまりそれを楽しむ余裕は無さそうです。でも本当はどんな時でも、いえ、そんな時ほど、自然に目を向ける心のゆとりがほしいのですが ―― 。
お忙しい皆さま方も、時には空の青さに、又澄んだ夜空に浮かぶお月さまの光に、心をお寄せになってみては如何でしょう。

 

 

 

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イラストレーターの谷本聡美様からこんな可愛いい絵葉書を戴きました。
「心からの感謝を込めて」の一文を添えられて ―― 。

挿絵

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『たそがれどきに』

暮れなずむ相国寺様の境内を歩くと、いろんなことに出会う。
六時台ともなると、家路を急ぐ人たちがせわしなく境内を通り抜けて行く。さしずめ、東門と西門を結ぶ石だたみの路が幹線道路。烏丸通りの信号が変わったのだろう、いっせいに何台もの自転車が流れ込んで来る。子供を前後に乗せているお母さん、買物を前カゴに乗せている主婦らしき人、学生、生徒、サラリーマン、いろんな人がいる。時折り、三台が並んで大きな声でしゃべり乍ら走る生徒もいる。それでも前から人が来ると、誰か一人がちょっと遅れて道を空ける。そしてやりすごすと又三列になって楽しそうに走って行く。
勿論、歩いている人も沢山おいでだ。夜の食事の買物だろうか、両手にビニール袋を下げて急ぎ足に歩く女性、重そうなカバンを手に下げて、疲れた足どりで歩く男性、OLらしき若い女性。時には弓道部なのか、弓袋を持って歩く女性もいる。その伸びた背すじが美しい。
いろんな人生が見えるようで、私にとって楽しい散策の路である。

だが、先日のこと。子供を自転車の後ろに乗せて無灯火で走っているお母さんに、年配の女性が声をかけた。「灯りつけて下さいね」 ―― 。おだやかな優しい声かけに返って来たのは ――「うるさい!ババァ」―― 。 ふり向きざまそういい捨てて走り去って行った。悲しそうに見送る女性。
こんな母親に育てられる子供は本当に可哀想だ。
そういえば以前こんな光景を目にした。赤信号で子供が立ち止った。ところが母親が、「赤信号や」という子供の言葉を無視して、「はよ行こ」と手をひぱって走って渡っていった。

子供は親を選べない。親になるというのはどういう事か、もう少し真剣に考えてほしいと思う。

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『 御礼』

ありがとうございました。
お陰様で『町かどの藝能』その四十一、無事おえさせていただきました。
三日間とも晴天に恵まれ、本当に幸運でした。澄み切った空の青さに、「町かどブルー」と、皆して歓声をあげて居りました。本当に有難い三日間でした。
初めておこしのお客さま、又、毎年おこし下さるなつかしいお顔も沢山いらして、いろいろとうれしいしらせがいただけました。やはり人と人とのつながりが何よりです。
それに海外からのお客さまもけっこうお見えでした。言葉の全くおわかりにならないお方もいらっしゃり、なんか申訳ない思いでしたが、それでも他の方の様子を見て同じようにして下さったり、本当にいいお客さまでした。
近頃の、心がキリキリ痛くなるようなニュースが多い世情だけに、この『町かどの藝能』が、少しでも皆さまの心の潤いになればと願っています。

公演の終わった翌日からは、十一月の「プレ京ことば講座」の中での「京ことばの小さなドラマ」の稽古に入って居ります。何分、京都出身でない人がほとんどですので、言葉のアクセントから勉強しなければならず、みんな大変です。語感のいい人、悪い人、みんなそれぞれにがんばっています。
人にはいろんな特性があって、いわば「能力の在り処」が全部ちがうのです。鈍くさくても確実な人、早くても不安定な人、いろいろです。
それぞれのいい面をみつけ、延ばすのが指導陣の仕事ですから、むづかしくもあり、たのしくもあり ―― というところでしょうか。

十二月には例年のようにごく小さな発表会も持ちます。公演の疲れもものかわ、みんな前に向かってすすんでいます。
どうぞこれからも温かい目で見守っていただけますよう、心よりお願い申し上げます。

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秋の公演「町かどの藝能」

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いよいよ、来週になりました。
稽古にも熱が入り、会場の準備にも追われております。
少しでも多くのお客様に来て頂き、楽しんで頂けるよう頑張っております。
是非、皆様お誘い合わせの上、お越し頂けると嬉しく思います。
劇団員一同

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『 ほんとうの勇気 』

人は誰しも、他人に悪く思われたくないという気持がある。他人との関わりあいの中で生きているのだから当然のことであろう。
しかし、時として、自分が悪く思われても言わなければならないこと、しなければならないこともある。
ある御婦人の母上が、病気で入院なさっていた。手術をされて一ヶ月余り経った時、担当の若い医師が「来週から入浴してもらいますが、週に一回しかいけません」といった。
医師の言葉にひっかかるものを感じた御婦人は考えられた。長い間、お風呂に入れなかった患者にとって、入浴許可が出ることは本当に嬉しいことである。だのに喜びが素直に湧いて来ないのだ。医師の態度からも言葉からも、患者の回復を喜び、励ます心は感じられなかった。本人は思っていたのかも知れないが、少なくとも口から出た言葉はそうではなかった。この時、もし医師が、「来週からお風呂に入れるよ。初めは週に一回だけど、今まで入れなったのが入れるようになったんだからね。それだけよくなったんだよ」―― こう言っていたらどうだろう。同じことを言っても、「入れるけど一回しかいけない」というのと、「一回だけど、入れるようになったよ」では全くちがう。常からぶっきら棒で、患者の気持ちなどあまり関心のないように見える医師だが、それは若さ故に「病」を見るのに精一杯で、「病人」までは見られないのかも知れない。この先、この医師は何千人、何万人の患者に接するだろう。その人たちの為にも、これは言っておくべきだと判断されたその方は、その医師に忠告されたのである。「先生のお言葉一つで、どれほど患者の励みになり、喜びになるかわかりませんので」といって。

これだけ考えられる方だから、きっと医師の心に届くいい方をなさったに違いない。自分の為より人の為に ―― 、なかなか出来ないことをなさったこのような方こそ、「真の勇気ある人」といえるだろう。

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『 このごろ 』

おさだ塾の秋の公演「町かどの藝能」その四十一。今、その準備で全員があわただしく、ハードな日をすごして居ます。舞台もおおよそ組み上りました。「どうして今から?」と思われるでしょうが、なにしろうちの場合は全てが自分たちの手づくりなのです。業者の方に依頼するなんてことはとうてい無理ですし、又、自分たちの手で造ることによって、自分たちの「場」になるのですから。毎日毎日、晴れれば外で、雨が降れば中で、黙々と準備に取り組んでいます。
と、いっても稽古もやはりしなければなりません。これまでと同じ事をやっているようでは、皆様に「おこし下さい」といえませんし、例え同じ演目でも去年より中味が充実し、洗練されていなければ、見ていただく意味がありません。準備も稽古も全ては見て下さるお客さまの為に、どちらも大切な「やるべきこと」なのです。

今日は雨もよう。うっとうしい空に、しばらくのお天気の具合を心配しています。といいますのも、九月二十六日は「絵本の読み聞かせを楽しもう」講座の今回のシリーズ最終回なのです。
なるべくなら晴れてほしい、講座におこしの方々に御不自由がないように ―― 講座の前にはいつもそう願います。
お蔭さまで「読み聞かせ講座」を受けて下さる方々は皆さまとても能動的に、真剣に取りくんで下さり、本当に有難い方々ばかりです。「教えることは学ぶこと」といいますが、本当にいつも私どもの方が勉強させていただいています。「もっと続けて講座を受けたい」といって下さる方も多いのですが、なかなか思うように時間をつくれず、申訳ない思いをしています。

それにつけても思うのですが、どうして私たちはこんなにも「鈍くさい」のかということです。器用な方はいろんな仕事を上手にやり分けられますが、私たちはどうしてもそれが出来ないのです。その為に多くの方に御迷惑をかけたり、ガッカリさせたりしなければならないのが、とても申訳なく、もう少し上手に、時間を使えるようにしなければと思っています。

遅々たる歩みではありますが、止まることなく、前へ向かって歩んで参ります。
どうぞ皆さま、御支援たまわりますように ―― 。

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『 九月に入って』

九月に入ってめっきり秋めいた涼しい日が続いて居ります。それにしても雨が多くて、常に傘が手放せない状態です。たまに晴れると、久しぶりの青空 ―― と、うれしくなります。

ホームページ、ちょっと怠けて居りましたが、塾の方は活発に動いて居ります。
「参の広場」と呼んでいる奥の庭も、すっかり草が刈りとられ、いつでも外で稽古が出来る状態になっています。男性陣は外でやりたがりますが、女性には今は未だあまり出てもらいたくありません。日焼けでまっ黒になったり、蚊に刺されて赤い斑点だらけになっては可哀想です。それにやっぱり女性は美しくあってほしいと思います(これ、ひょっとしてセクハラでしょうか?)

さて、秋の公演に向けての演目も、日々の稽古で序々に練られて来ています。
「鳥笛うり」さんも新たに「京の七口」をテーマにしたお話しや、「鳥・謎々」のようなお話があったり、常に進化しながら「町かどの藝能」のよさを忘れない、厳しくも楽しい稽古が続いています。他の芸能もそれぞれに、反復し乍ら序々に新たな工夫を取り入れる努力をしています。
今は俳優さんたちの努力に期待するばかりです。

さて、今年の「町かどの藝能 その四十一」が、現代教育研究会の例会として取り上げていただく事になりました。
現代教育研究会というのは昭和32年道徳教育を正規の学科として取り入れるということを文科省が決めた際、「その中身・方法は如何にあるべきか」などを研究する為に「道徳教育研究会」として発足しました。京都大学の先生方を中心に関西のほとんどの大学、更には高・中・小・幼・行政関係・企業、教育にかかわるあらゆる分野の方々を包括した一大研究会でした。間もなく「現代教育研究会」と改稱され、今も尚、真摯な研究、発表、実践のなされている権威ある研究会です。
おさだ塾では、他の世界を識る為に、又人として少しでも向上する為に、長田先生の頃から何人か、研究会に参加させていただいて居ります。
勿論、私たちは教育学会の人間ではありませんから、あくまでも「勉強させていただく為」に、そして「お邪魔させていただきます」という姿勢でのぞんで居ります。
実は一昨年も例会として取り上げていただいたのですが、今年も又、おさだ塾の「町かどの藝能」を取り上げて下さいました。碧川が少し中味についてのお話をし、そのあと観劇していただく予定です。
ともすれば内々の世界だけに生きがちな演劇界の人間としては本当にいい勉強をさせていただいている研究会です。

秋の公演まであとひと月あまり、一人でも沢山のお客さまに喜んでいただけるよう、塾生一同いよいよ熱が入ります。

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『 地蔵盆 』

きのうまで、京のあちこちに見られた「地蔵盆」の行事。
各町内毎に、子供を楽しませる映画や花火、時にはマジックなど、いろいろと趣向をこらして行われる。本来の宗教行事としての色は薄くなっているとはいえ、子供たちにとっては一寸いつもとは違うハレの日である。
夏休みが間もなく終わることを改めて思い出し、出来ていない宿題に「どうしよう」と思うのもこの頃である。残りわずかな夏休みの最後の「遊び」の時、お地蔵様を横目に見ながら、それでも子供にとっては充分楽しい行事だった。
今は、子供の数が少なくなったせいもあって、大人たちだけがテントの中に坐っているような町内も多いという。
この地蔵盆という行事、京都とその周辺以外ではほとんど無いという。
京都では、子供の頃からどこの町内にもお地蔵さんはあったし、祖母や祖父たちは必ず孫を、お地蔵さんの前で掌を会わさせ、頭を下げさせて「まんまんちゃん、あん」と教えたものだ。京都育ちの誰もほとんどが体験している「当たり前」のことが、他所ではなされていないこと、そして地蔵盆という言葉さえ知らないと聞いた時はいささか驚いた。
勿論、お地蔵さんが全くないというのではなく、集落ごとに必ず一体や二体は有ったというし、その多くは村はずれとかに祀られて、道祖神的な性格を持つものが多かったという。
それでも京都のように、町内毎に祀られ、八月の同じ時期に子供たちの為の地蔵盆として賑やかに行われるということは、ほぼ無かったようだ。
最も、地蔵信仰が平安後期に公家貴族の間で広まり、それが徐々に民間信仰として浸透していった過程を考えれば、自然な成り行きかも知れない。地蔵盆がいつごろから始まり、いつごろから普遍的な行事になったのか定かではないにせよ、子供たちのまっさらな心に神仏を敬う心の種を播き、ひいては万物に宿る生命を思いやる心を育てる一助になったことは確かである。
若い頃は、神仏に手を会わせることはカッコ悪いと思った者でも、たいがい年を重ねると、いつとはなくふっと頭を下げたくなるというのも、幼い頃の無意識の記憶のお蔭かもしれない。
釈迦入滅後、未来の世に現れる弥勒菩薩までの気の遠くなるような空白の時を埋めて、衆生済度をして下さるのが地蔵菩薩。子供との結びつきがとりわけ強い日本の地蔵信仰がいつまで生き続けられるのか、ふとそんなことを思わされた。

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『 ゆく夏 』

京の夜空を染めて五山に送り火が点され、この世とあの世をつなぐお盆の行事が終わりました。
いよいよ夏が去っていく ―― そんな感傷がふとよぎります。
一方、甲子園では毎日、球児たちの熱戦が繰り広げられています。
熱戦を中継するアナウンサーの方々も、それぞれに御苦労があるようです。
かなり前のことですが、その方は放送の担当が決まるとすぐ、資料の蒐集・調査は勿論のこと、放送当日には必ず朝一番に球場に入られます。未だ選手たちも観客も入ってない静かな球場を隅から隅まで、アルプススタンドも、選手たちの控えの場も、裏方の部屋も、全てくまなく見て廻られます。全体を掌握していれば何があってもすぐに対応出来るからです。 「選手も監督も応援の人も、皆がそれぞれ全身全霊で取り組むのだから、放送する自分も出来る限りのことをするのは当然」との心構えでしょう。
二週間の熱戦が終わる頃、それまで縦に伸びていた夏の雲が、横に長い秋の雲に変わります。
そして選手も観客も全てが去った静かな球場に、どこからともなく赤トンボの群がやって来て、吹く風にも秋の匂いがする ―― 毎年必ずくり返される熱戦の後の風景だとか。
異常な暑さの続いた今年の夏も、同じ風景が見られるのでしょうか。

般若林では少し前からツクツクボウシが鳴いています。相国寺様の境内ではひぐらしが、そしてツクツクボウシもくまぜみもミンミンぜみも、いろんな蟬の声を聞くことが出来ます。残念乍ら般若林ではひぐらしの声が聞けません。あの澄明な声を聞けたら、暑い稽古場も少しは涼しくなるのですが ―― 。
でも秋はすぐそこ。朝夕の一寸した涼が、それを教えてくれています。

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