月別アーカイブ: 2016年11月

『今という時』

私どもの塾では、入門を希望する人に対して審査を行う。といっても落す為ではない。その人がどんな人なのかを知る為の審査である。

人間、一人一人顔が違うように、持っているものがみんな違う。知性も教養も学力も、人柄も情緒も肉体条件も生活環境もみんな違う。その違う一人一人に画一的な教育方法をとっても決して同じようには育たない。まずはその人がどんな人なのかをよく知って、はじめて、その人に適った教育方針が立てられるのである。故に審査は慎重に行う。そして入門を認めるということは、その人を伸ばす使命を、責任を、我々が負うことなのである。
お茶碗とか、道具とか、は、作る過程で失敗しても作りなおしが利く。捨てることも出来る。だが人は、作るのに(育てるのに)失敗したからといって、やり直すことも捨てることも絶対に出来ない。失敗することはその人の人生を奪うことになりかねないのである。だから、私どもの審査というのは、入る人よりも、むしろ指導する側の人間が、この人を育てられるかどうか、自らをはかる審査でもあるのである。

ところで、このことに限らず、世の中には取り返しのつかないことが沢山ある。「このくらい、このくらい」の無理の積み重ねが大病につながったり、一時の感情で人を傷つけてかけがえのない友情を失ったり ―― 。中でも、決して取り返せないのが「時」である。「今」という時は二度とかえって来ない。人と食事をする時も、友と語らう時も、今、こうして何かを書いている時も。 そう思うと この「ひととき」が無性にいとおしく、悔いのない「時」のつみ重ねをせねばとしみじみ思う。
二度とは来ない「平成二十八年」。さまざまな思い出をくれたこの年も、余すところ一月余となった。この年のしめくくりを如何になすべきか ―― 。時の過ぎぬうちに答えをださねばなるまい。

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『小さな小さな発表会について』

何をやるのか私どもも知らない発表会(十二月十八日・日曜日/十四時半から十六時半まで)ですが、どうやらその折りに日舞(といっても、「町かどの藝能」に必要な動き、しぐさ、日本の立居ふるまいの為というのが主目的です)の稽古発表をするようです。習っては中断、習っては中断で、なかなかまとまった稽古が出来ず、今年の春から又再開した日舞の稽古ですが、何しろ月一回の稽古です。おまけにその日に出席出来ない塾生もいたりして、先生には本当に迷惑をかけています。それを半ば強引に、無理をいっての発表ですから、どんなものになるか申訳ないようななりゆきです。でも「精一杯やる」のが身上の塾生たちですから、きっとがんばってくれると思います。

といいますのも、昨年の「町かどの藝能」公演の写真を撮って下さったお客様の中のお一人が、うちの人たちの様子を「精一杯演じる心意気」と題してコンクールに出品なさいました。そして見事「日本一」に輝やかれました。藤本裕紀様です。たしか富士フイルム主催のコンクールです。記念にその写真をいただきましたが、それを見た一人の感想 ―― 「ウヮッ、ちゃんと指先が伸びていてよかった」―― 。

でも本当にいい写真です。発表会当日も皆様に見ていただきたいと思っています。

又、梶田明子が何か本を書いているらしく、皆がそれをることをたのしみにしています。
来年二月の「草藁生活行」(塾の年度始めです ―― 上賀茂神社から貴船まで、草鞋履きで歩き、そのあと小さな発表会を持ちます)での脚本(かどうかわかりませんが、何かを)斉藤浩未が書く予定らしいです。今の世の中と同じく うちも女性陣のがんばりが多いようで、たのもしい限りです。

男性陣、がんばれ!!

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近況

愛らしい黄色い小菊があちらこちらに咲いています。
いっときは、よく樹上から落ちて来た花梨も、近頃は少し落ちなくなりました。下にあった車の天井がへこんだこともあり、うっかりその下を歩けない花梨です。というのも、花梨はとてもとても固い果実なのです。花梨酒にするととても美味しいのですが、切るのが大変で、毎年見送ってしまいます。以前は相国寺様の僧堂のお方が、時々花梨を持っていって下さってましたが、近頃はお見えになりません。以前の御師家様のように、花梨を好まれるお方がいらっしゃらないのでしょうか。夏の初めには可憐なピンクの花を咲かせてくれる、とても風情のある花梨の木です。

今、般若林の西側は入口から裏庭の端まで五十間もの間、ずっと工事中のフェンスがはりめぐらされています。お隣の烏丸中学さんとの境界の塀が改修されるのです。私どもの秋の「町かどの藝能」公演がすんでからと、待ってて下さったそうです。「町かどの藝能」の公演中にはチャイムの音を低くして下さったり、烏丸中学校様にはいつも好意的に受け容れていただいています。御近所の方々も、稽古でやかましくして申訳ないと思って居りますのに、反対に「たのしませてもらってます」といって下さったり、公演当日のお天気を、我が事のように気づかって下さったり、本当に囲りの皆さまに支えられ、助けられ、可愛がっていただき乍らの、感謝 感謝の日々です。

この十一月十二日(土)には向日市の長岡宮遺跡で小さな公演をいたします。遺跡の前に新しく「絵灯籠」を お作りになった、その点灯式のお祝いです。地元の皆様の熱いお心に応えられるよう心して行って参ります。

十二月十八日には恒例の塾生たちだけで、何をするのかを決めて、稽古をして、近しいお方に見ていただく小さな小さな発表会を持ちます。何をするのか、私どもには分かりませんが、けっこういつも自分たち(塾生)は楽しんでいるようです。来ていただくお客さまには御迷惑かも知れませんが・・・・。どうかあたたかい目で見てやっていただきたいと思います。又、後日、もう少しくわしくおしらせいたします。どうぞよろしくお力添え下さいますように。

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庭の石

秋の深まりと共に、京都を訪れる観光客はいよいよ多くなる。有名寺院や名所旧蹟はいわずもがな、近頃は京都人も知らないようなところへの方たちが沢山おいでになる。お陰で京都の歴史や伝統を改めて見なおしたという人もあるほどだ。情報過多といわれる時代の慮外の功績であろう。
京都はどなたもご存知のように盆地である。周囲を山にかこまれた京都は、夏はむし暑く、冬はしんしんと冷え込む。住む者には酷しい気候条件だが、反面そうした地形が素晴らしい庭園美を創り出してくれた。その最たるものの一つが借景である。周りの山々を実に巧みに我が庭園に取り入れている。庭の木や石、塀、そしてそれらの背後に望見する山脈 ―― その調和の美は万人の識るところである。
かつて我が師はよく門下生を連れてそうした寺院へでかけられた。そして庭を眺めながら、こんな話をされた。
借景の庭の小さな石 ―― その下には何十倍もの大きさが埋まっている。表に出ているのは、そのほんの一部でしかない。いわば氷山の一角なのだ。地面の下の、見えない部分の支えがあるからこそ、あんな小さな石が、大きな山を背景にしても負けないだけの力、重さがあるのだ ―― と。
演劇も同じである。表に出ている部分 ―― つまり舞台の上での生活を展開する為にはその何十倍ものの生活 ―― その人物の舞台上以外の生活 ―― を踏み込まなければならない。その支え、裏打ちがあってはじめて、いい舞台は成り立つ。
又、このことは演劇に限らず、他のあらゆるものごとに通ずる。いい仕事、すぐれた仕事をする人は必ず、どこかで、目に見えないところで懸命に己をふとらせ、充実させる努力を続けているものである。
庭石を通して教えられた不変の真理は、よき師に恵まれた幸せと共に、常に我がうちに生きている。

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