『今という時』

私どもの塾では、入門を希望する人に対して審査を行う。といっても落す為ではない。その人がどんな人なのかを知る為の審査である。

人間、一人一人顔が違うように、持っているものがみんな違う。知性も教養も学力も、人柄も情緒も肉体条件も生活環境もみんな違う。その違う一人一人に画一的な教育方法をとっても決して同じようには育たない。まずはその人がどんな人なのかをよく知って、はじめて、その人に適った教育方針が立てられるのである。故に審査は慎重に行う。そして入門を認めるということは、その人を伸ばす使命を、責任を、我々が負うことなのである。
お茶碗とか、道具とか、は、作る過程で失敗しても作りなおしが利く。捨てることも出来る。だが人は、作るのに(育てるのに)失敗したからといって、やり直すことも捨てることも絶対に出来ない。失敗することはその人の人生を奪うことになりかねないのである。だから、私どもの審査というのは、入る人よりも、むしろ指導する側の人間が、この人を育てられるかどうか、自らをはかる審査でもあるのである。

ところで、このことに限らず、世の中には取り返しのつかないことが沢山ある。「このくらい、このくらい」の無理の積み重ねが大病につながったり、一時の感情で人を傷つけてかけがえのない友情を失ったり ―― 。中でも、決して取り返せないのが「時」である。「今」という時は二度とかえって来ない。人と食事をする時も、友と語らう時も、今、こうして何かを書いている時も。 そう思うと この「ひととき」が無性にいとおしく、悔いのない「時」のつみ重ねをせねばとしみじみ思う。
二度とは来ない「平成二十八年」。さまざまな思い出をくれたこの年も、余すところ一月余となった。この年のしめくくりを如何になすべきか ―― 。時の過ぎぬうちに答えをださねばなるまい。

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『小さな小さな発表会について』

何をやるのか私どもも知らない発表会(十二月十八日・日曜日/十四時半から十六時半まで)ですが、どうやらその折りに日舞(といっても、「町かどの藝能」に必要な動き、しぐさ、日本の立居ふるまいの為というのが主目的です)の稽古発表をするようです。習っては中断、習っては中断で、なかなかまとまった稽古が出来ず、今年の春から又再開した日舞の稽古ですが、何しろ月一回の稽古です。おまけにその日に出席出来ない塾生もいたりして、先生には本当に迷惑をかけています。それを半ば強引に、無理をいっての発表ですから、どんなものになるか申訳ないようななりゆきです。でも「精一杯やる」のが身上の塾生たちですから、きっとがんばってくれると思います。

といいますのも、昨年の「町かどの藝能」公演の写真を撮って下さったお客様の中のお一人が、うちの人たちの様子を「精一杯演じる心意気」と題してコンクールに出品なさいました。そして見事「日本一」に輝やかれました。藤本裕紀様です。たしか富士フイルム主催のコンクールです。記念にその写真をいただきましたが、それを見た一人の感想 ―― 「ウヮッ、ちゃんと指先が伸びていてよかった」―― 。

でも本当にいい写真です。発表会当日も皆様に見ていただきたいと思っています。

又、梶田明子が何か本を書いているらしく、皆がそれをることをたのしみにしています。
来年二月の「草藁生活行」(塾の年度始めです ―― 上賀茂神社から貴船まで、草鞋履きで歩き、そのあと小さな発表会を持ちます)での脚本(かどうかわかりませんが、何かを)斉藤浩未が書く予定らしいです。今の世の中と同じく うちも女性陣のがんばりが多いようで、たのもしい限りです。

男性陣、がんばれ!!

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