相国寺様の池に、少し前から鷺が住みついているようです。時々大きな声で鳴くのですが、それがなんともいいようのない悪声なのです。同じならもう少しいい声に生まれればよかったのにと可哀想に思うほどです。
それにしてもどうしてこんなにいろいろと姿形(声も含めて)に違いがあるのでしょう。
「美しい」と感じてもらえるものは幸せです。個々の主観に多少の違いはあっても、洋の東西にかかわらず、美しいと思うものと思わないものは共通しているようです。建造物にしろ絵画にしろ彫刻にしろ、どの国のものも美しいと評価されているものはやはり美しく感じます。
誰が見ても美しいものを美しいと感じられるのは、何を基準にそう感じるようになっているのか不思議な気もします。
でもそんなつまらないことを考えるより、素直に感じるままにうけ入れるのが自然なあり方でしょう。たまに、どう見ても美しいとか可愛いとか感じられないものをペットとして飼われたり、好きだという方も居られるのですから、ま、十人十色、いろいろあってこそ、世の中はたのしいのかもしれません。宗教にもいろいろありますが、元はといえば全て人間が生み出したものです。どんな宗教の方でも、又、思想の方でも、親や子供など愛するものを失えば悲しいし、愛する者が幸せであってくれれば自分も幸せだと思います。だからこそ普遍的な人の感情、心を描く演劇や芸術は世界共通、名作は名作として受け入れられ、生き続けているのでしょう。
「人間誰でも、一生に一作ぐらいは名作といわれる作品(小説や脚本など)が書ける」と聞いたことがあります。
「素人は好きな時に好きなものを書けばいい。だがプロは、沢山の制約(時間とか回数とか経費とか)の中で、書き続けなければならない。それも「いい」といわれるものを。それが出来てはじめてプロだ」とも ―― 。それはその通りですが、では好きなものを好きな時に書けばいい人がいい作品をつくれるのかというと必ずしもそうでもないようです。
ただ、こんな理屈にもならないことをひねくりまわしている暇に、なにか「生産」をしなければ、この世に生きている価値もありますまい。人の悪口をいうのは、暇をもてあましている人間だとか。生産につながる暇というのはどうやら存在しないようです。