少し古い話をしよう。
戦後、日本が復興の歩みを一段と強くしていったころ。マス・メディアは新聞とラジオだけだった。
ラジオといってもNHKだけ。大阪BKは今年開局九十周年、京都OKは今月二十四日で八十三周年を迎えた。
そして昭和二十六年、民放が新たにスタートした。何分、ほとんど経験のない人間が、未知の事業に立ち向かったのだから、それこそテンヤワンヤであった。まして重役たちは現場の事など全く御存知ない。「一時間ドラマの録音に何故三時間も四時間もかかるんだ。一時間で取れ」―― 。こんな小言はしょっちゅうだった。
当時、録音の為のテープはとても高価なものだった。だからテープを切るなんてことは御法度、ドラマの収録中にもし誰か一人が失敗しようものなら、又、一から取り直しをしなければならなかった。失敗部分のテープを切ってつなぐなんて事は出来なかったからだ。だから俳優たちは大変である。もし自分が失敗したら全員に迷惑をかける。ピリピリしながら、それでもお互い気持はよくわかるから、誰も文句はいわなかった。
長丁場の時など、大物の人たちの中にはザブトンを持ちこんで、スタジオの片隅で横になって休む人もあったほどである。
効果音も、ディスクなんて便利なものはなかったから、全て手づくり。ミキサーの人たちの苦労は大変なものだった。ミキサーの手の足りない時は俳優たちも協力して音づくりを手伝った。深夜、寝静まった街へ出て、道路の真中に敷石を並べてジャリを撒き、その上を研究生の女優さんに下駄で走ってもらって「土道を小走りで行く」音を取ったり、火事の時には、布を張った大きな糸くり車のような道具を廻すといろんな風の音がでる。更に束ねた割箸を手でねじり、そのバリバリという音で火事の爆ぜる音を出したり、丼鉢を幾つも落としてガチャガチャ物のこわれる音を出したり ―― 。局の近くのうどん屋さんは、災難であった。
機能第一の今の現場とは違って、のどかというか、無器用で鈍くさいながらも温かい血の通う現場であった。
BKでは九十周年記念の行事で、昔のものの再放送(映)がいろいろとあるようだ。久しぶりになつかしい名人芸にふれられることだろう。