月別アーカイブ: 2016年7月

「 鏡 」

我が塾にはたくさんの鏡がある。
全身が写せる大きな鏡から、顔だけが写る小さなのまで、さまざまである。稽古場は勿論、廊下を歩いていてもどこかに自分の姿が写っている。
こういうと、「なるほど、さすが劇団ですね」と人はおっしゃる。たしかにこれは、俳優たちが常に自分の姿を見て欠点を直すのに役立つ。が、本当は単に俳優だけの為ではないのである。
人は鏡を見る時、必ず心に何かを感じる。「あ、いやな顔してる」「つかれた顔だな」「軽薄だな」「気むずかしい顔して」などなど ―― 。
何かで腹を立てている時、鏡を見ればそこには怒った険しい顔が写っている。嬉しい時には生き生きとした明るい顔が写っている。鏡は形だけでなく、心をも正直に写しだしてくれるのである。
人間の心は実にさまざまに動く。鏡を見て、はっと気づかされて恥かしい思いをすることもしばしばある。又、いつもこんな顔でいられたらと思うこともある。そしてどんなに腹を立てている時でも、鏡の中の自分をじっと見つめていると次第に心が落着き、平静を取り戻すことが出来る。「鏡を見て自らを知り、知ることによって為すべきことがわかる」 ―― のである。
かつて、或る下町の、いわゆるドヤ街の真中にある診療所での話だが、表のガラス戸がしょっちゅう割られるのだ。喧嘩と、酔っぱらっての上のことがほとんどだが、あまり度重なるので困り果てた女医先生が考えた。そして思い切ってそのうちの一枚を鏡にしてみたのである。すると不思議なことに他のガラス戸は相変らず割られる中で、その鏡の戸だけはまるでぬけ出したように、ただの一度も割られることがなかった。

古代、鏡は信仰の対象であったが、現在(いま)も尚、何かを教えてくれている。

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「 蓮池 」

相国寺様の蓮池は今まさに満開です。
池のまわりの生垣を 今年はうんと背を低くして下さったので とても中が見やすくなりました。
未(ひつじ)草といわれる睡蓮のように、午後二時過ぎには花を閉じてしまいます。蓮の花をたのしむには何といっても朝が一番いいようです。
只、今年は例年より鉢の数が少ないように思います。気のせいかも知れませんが ―― 。

今年の梅雨はどうなのでしょう。これからも降るのか それともこのまま上ってしまうのか。出歩く人にとっては晴がいいのでしょうが、やはり降る時には降らないと、いろいろと差しつかえが出てきます。

その昔、物を売る前に まずは芸能でお客さまにたのしんでいただき そののちに商いをする、そんな商人さんが沢山居りました。私どもおさだ塾が 毎年秋に公演して居ります「町かどの藝能」の主人公たちです。その芸商人たちは、梅雨の長雨にふりこめられても、決して恨み言をいいませんでした。
この雨のお陰で田に水が満たされ、草木が夏の暑さに耐えられるのだ。これも天の恵みの雨 ― と受けとったのです。
暑い、寒いと ブツブツいい乍ら、クーラーやヒーターにたよる現代とは全くちがった、大自然を敬い感謝の心を忘れなかった昔の人たち。そんな心を少しでもわかろうと、俳優たちは努力しています。
稽古場にクーラーはありません。うんと汗をかいて稽古をしたあとの、冷い麦茶のなんともいえない美味しさ ― 。旅の途中、谷川の冷い水で喉をうるおしたであろう芸商人に想いを馳せるひとときです。

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「萩の餅」

般若林の庭に宮城野の紅い萩の花が咲きました。はぎ2
未だチラホラですが、今に枝いっぱいにこぼれ咲くことでしょう。
この萩は、もう随分前に月心寺の村瀬明道尼様からいただいたものです。
はじめは紅と白の両方があり、白い萩はのびのびと、枝葉を伸ばし、花をつけ、紅い萩はひっそりと、遠慮勝ちに咲いていました。
それがいつの間にか白い萩が無くなり、紅い萩だけになってしまいました。

いつ、どのようにそうなったのか、誰にもわかりません。これも自然界の不思議なのでしょうか。

皆さまよく御存知の「お萩」(もち菓子)について。
白い御飯に紅い小豆をつけたこのもち菓子の様子を、昔の人たちは「萩の花のこぼれ咲きのようだ」と御覧になりました。そしてその餅菓子に「萩の餅」と名づけました。
一方、御所づとめの女房方は、たいそう言葉遊びがお上手で、ものの名前の上に「お」をつけ、下半分をとるということをお始めになりました。「ざぶとん」に「お」をつけて下半分「とん」を取れば「おざぶ」、「せんべい」に「お」をつけて下半分「べい」を取れば「おせはぎ1ん」のように。
「萩の餅」もこの方式で上に「お」をつけ、下半分を取り「お萩」になりました。
牡丹の花のさまから名づけられたといわれる「ぼた餅」ですが、これは「おぼた」とはいいませんね。
言葉というのは面白いものです。

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