おさだ新聞」カテゴリーアーカイブ

『たそがれどきに』

暮れなずむ相国寺様の境内を歩くと、いろんなことに出会う。
六時台ともなると、家路を急ぐ人たちがせわしなく境内を通り抜けて行く。さしずめ、東門と西門を結ぶ石だたみの路が幹線道路。烏丸通りの信号が変わったのだろう、いっせいに何台もの自転車が流れ込んで来る。子供を前後に乗せているお母さん、買物を前カゴに乗せている主婦らしき人、学生、生徒、サラリーマン、いろんな人がいる。時折り、三台が並んで大きな声でしゃべり乍ら走る生徒もいる。それでも前から人が来ると、誰か一人がちょっと遅れて道を空ける。そしてやりすごすと又三列になって楽しそうに走って行く。
勿論、歩いている人も沢山おいでだ。夜の食事の買物だろうか、両手にビニール袋を下げて急ぎ足に歩く女性、重そうなカバンを手に下げて、疲れた足どりで歩く男性、OLらしき若い女性。時には弓道部なのか、弓袋を持って歩く女性もいる。その伸びた背すじが美しい。
いろんな人生が見えるようで、私にとって楽しい散策の路である。

だが、先日のこと。子供を自転車の後ろに乗せて無灯火で走っているお母さんに、年配の女性が声をかけた。「灯りつけて下さいね」 ―― 。おだやかな優しい声かけに返って来たのは ――「うるさい!ババァ」―― 。 ふり向きざまそういい捨てて走り去って行った。悲しそうに見送る女性。
こんな母親に育てられる子供は本当に可哀想だ。
そういえば以前こんな光景を目にした。赤信号で子供が立ち止った。ところが母親が、「赤信号や」という子供の言葉を無視して、「はよ行こ」と手をひぱって走って渡っていった。

子供は親を選べない。親になるというのはどういう事か、もう少し真剣に考えてほしいと思う。

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『 ほんとうの勇気 』

人は誰しも、他人に悪く思われたくないという気持がある。他人との関わりあいの中で生きているのだから当然のことであろう。
しかし、時として、自分が悪く思われても言わなければならないこと、しなければならないこともある。
ある御婦人の母上が、病気で入院なさっていた。手術をされて一ヶ月余り経った時、担当の若い医師が「来週から入浴してもらいますが、週に一回しかいけません」といった。
医師の言葉にひっかかるものを感じた御婦人は考えられた。長い間、お風呂に入れなかった患者にとって、入浴許可が出ることは本当に嬉しいことである。だのに喜びが素直に湧いて来ないのだ。医師の態度からも言葉からも、患者の回復を喜び、励ます心は感じられなかった。本人は思っていたのかも知れないが、少なくとも口から出た言葉はそうではなかった。この時、もし医師が、「来週からお風呂に入れるよ。初めは週に一回だけど、今まで入れなったのが入れるようになったんだからね。それだけよくなったんだよ」―― こう言っていたらどうだろう。同じことを言っても、「入れるけど一回しかいけない」というのと、「一回だけど、入れるようになったよ」では全くちがう。常からぶっきら棒で、患者の気持ちなどあまり関心のないように見える医師だが、それは若さ故に「病」を見るのに精一杯で、「病人」までは見られないのかも知れない。この先、この医師は何千人、何万人の患者に接するだろう。その人たちの為にも、これは言っておくべきだと判断されたその方は、その医師に忠告されたのである。「先生のお言葉一つで、どれほど患者の励みになり、喜びになるかわかりませんので」といって。

これだけ考えられる方だから、きっと医師の心に届くいい方をなさったに違いない。自分の為より人の為に ―― 、なかなか出来ないことをなさったこのような方こそ、「真の勇気ある人」といえるだろう。

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『 地蔵盆 』

きのうまで、京のあちこちに見られた「地蔵盆」の行事。
各町内毎に、子供を楽しませる映画や花火、時にはマジックなど、いろいろと趣向をこらして行われる。本来の宗教行事としての色は薄くなっているとはいえ、子供たちにとっては一寸いつもとは違うハレの日である。
夏休みが間もなく終わることを改めて思い出し、出来ていない宿題に「どうしよう」と思うのもこの頃である。残りわずかな夏休みの最後の「遊び」の時、お地蔵様を横目に見ながら、それでも子供にとっては充分楽しい行事だった。
今は、子供の数が少なくなったせいもあって、大人たちだけがテントの中に坐っているような町内も多いという。
この地蔵盆という行事、京都とその周辺以外ではほとんど無いという。
京都では、子供の頃からどこの町内にもお地蔵さんはあったし、祖母や祖父たちは必ず孫を、お地蔵さんの前で掌を会わさせ、頭を下げさせて「まんまんちゃん、あん」と教えたものだ。京都育ちの誰もほとんどが体験している「当たり前」のことが、他所ではなされていないこと、そして地蔵盆という言葉さえ知らないと聞いた時はいささか驚いた。
勿論、お地蔵さんが全くないというのではなく、集落ごとに必ず一体や二体は有ったというし、その多くは村はずれとかに祀られて、道祖神的な性格を持つものが多かったという。
それでも京都のように、町内毎に祀られ、八月の同じ時期に子供たちの為の地蔵盆として賑やかに行われるということは、ほぼ無かったようだ。
最も、地蔵信仰が平安後期に公家貴族の間で広まり、それが徐々に民間信仰として浸透していった過程を考えれば、自然な成り行きかも知れない。地蔵盆がいつごろから始まり、いつごろから普遍的な行事になったのか定かではないにせよ、子供たちのまっさらな心に神仏を敬う心の種を播き、ひいては万物に宿る生命を思いやる心を育てる一助になったことは確かである。
若い頃は、神仏に手を会わせることはカッコ悪いと思った者でも、たいがい年を重ねると、いつとはなくふっと頭を下げたくなるというのも、幼い頃の無意識の記憶のお蔭かもしれない。
釈迦入滅後、未来の世に現れる弥勒菩薩までの気の遠くなるような空白の時を埋めて、衆生済度をして下さるのが地蔵菩薩。子供との結びつきがとりわけ強い日本の地蔵信仰がいつまで生き続けられるのか、ふとそんなことを思わされた。

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『 やがて八月 』

七月の京都は祇園祭一色にぬりつぶされる。鉾町以外の方々にとってはかかわりない事だろうが、それでも街中が祭礼の雰囲気になるのは、これも又、伝統の力だろうか。

そして八月。子供たちにとっては何よりもうれしい夏休みである。甲子園では今年も又、高校球児たちの熱い戦いがくりひろげられ、沢山の涙と感動を日本中に与えてくれるだろう。
又、津軽平野のねぶた祭り、山形の花笠踊り、阿波踊りなど、各地で夏祭りが華やかにくり広げられる。
レジャーに祭りにと、日本中が浮きたつ季節である。
その同じ八月、七十年前に日本は敗戦の日を迎えた。八月六日広島に原爆投下、続いて九日には長崎に。双方の犠牲者は累算三十二万五千人、そして今尚その数はふえ続けている。
海外で散った生命は二百六十万人。国内でも五十万人を超える人たちが尊い生命をうばわれた。
勿論、この数が、全てではない。何らかの形で戦争の犠牲になった人たちの実数はもっと多いはずである。
そんな戦争がやっと終わった八月十五日。奇しくもその翌十六日、京都の五山に大文字の送り火が点される。お盆の十三日に迎えた祖先の霊が、迷うことなく冥界に戻られるようにと念う心の送り火である。
偶然にもせよ、終戦の翌日に点される大文字の送り火に、戦争で亡くなった人々の冥福を祈る方は今も少なくないはずである。

レジャーに湧き立ち、華やかな行事に彩られる八月だが、秘めやかな祈りの月でもあることを、今に生きる私たちは忘れてはなるまい。

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『ラジオ放送今昔』

少し古い話をしよう。
戦後、日本が復興の歩みを一段と強くしていったころ。マス・メディアは新聞とラジオだけだった。
ラジオといってもNHKだけ。大阪BKは今年開局九十周年、京都OKは今月二十四日で八十三周年を迎えた。
そして昭和二十六年、民放が新たにスタートした。何分、ほとんど経験のない人間が、未知の事業に立ち向かったのだから、それこそテンヤワンヤであった。まして重役たちは現場の事など全く御存知ない。「一時間ドラマの録音に何故三時間も四時間もかかるんだ。一時間で取れ」―― 。こんな小言はしょっちゅうだった。
当時、録音の為のテープはとても高価なものだった。だからテープを切るなんてことは御法度、ドラマの収録中にもし誰か一人が失敗しようものなら、又、一から取り直しをしなければならなかった。失敗部分のテープを切ってつなぐなんて事は出来なかったからだ。だから俳優たちは大変である。もし自分が失敗したら全員に迷惑をかける。ピリピリしながら、それでもお互い気持はよくわかるから、誰も文句はいわなかった。
長丁場の時など、大物の人たちの中にはザブトンを持ちこんで、スタジオの片隅で横になって休む人もあったほどである。
効果音も、ディスクなんて便利なものはなかったから、全て手づくり。ミキサーの人たちの苦労は大変なものだった。ミキサーの手の足りない時は俳優たちも協力して音づくりを手伝った。深夜、寝静まった街へ出て、道路の真中に敷石を並べてジャリを撒き、その上を研究生の女優さんに下駄で走ってもらって「土道を小走りで行く」音を取ったり、火事の時には、布を張った大きな糸くり車のような道具を廻すといろんな風の音がでる。更に束ねた割箸を手でねじり、そのバリバリという音で火事の爆ぜる音を出したり、丼鉢を幾つも落としてガチャガチャ物のこわれる音を出したり ―― 。局の近くのうどん屋さんは、災難であった。
機能第一の今の現場とは違って、のどかというか、無器用で鈍くさいながらも温かい血の通う現場であった。

BKでは九十周年記念の行事で、昔のものの再放送(映)がいろいろとあるようだ。久しぶりになつかしい名人芸にふれられることだろう。

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NHKの朝のドラマ

四月からはじまったNHKの朝のドラマに、輪島塗りのことが取り上げられている。
かつて、ある輪島塗りの職人さんに、テレビのアナウンサーが質問していた。
「とても質素な生活をなさっているようですが、せいたくをしたいと思われたことはありませんか」―― 。
アナウンサーの不思議そうな質問に、その職人さんはボソッと答えられた。
「ぜいたくいわれても、したことがないから、わからん―― 。
何の気負いもてらいもなく、一言そういうと、又、黙々と仕事を続けてられた。
その時の、胸に刃を突き刺されたような痛みは今も忘れられない。
永六輔さんなどもよくおっしゃっているが、本当に、もっともっと「職人といわれる方々を大切にしてほしいと思う。

又、少し前の「マッサン」では、ウイスキー造りが取り上げられていた。
これも何かのドキュメンタリー番組で見たのだが、ウイスキー造りの職人さんが沢山並んだ原酒の樽を愛しそうに撫でながら、
「今、仕込んだこの原酒が、何十年後にどのように育っているのか、成長した姿を私たちが見ることは出来ません。
けれど、先人たちが素晴らしい原酒を残してくれたからこそ、今の私たちが美味しいウイスキーづくりに挑戦することが出来るのです―― 。
自分たちのこの原酒も、いつかそんな喜ばれるウイスキーになってくれるであろうことに、限りない夢と希望を感じてられるその言葉は、こよなく美しかった。
少しでも早く、少しでも便利なものを追い求める今の世の中にも、それではどうしてもつくれないもの、生み出せないものがあることを、改めて考えさせられる。

我々の追い求めるものも又、早く便利にではどうすることも出来ないものである。少々苦しくとも辛くとも(あまりそうは思わないのだが)、好きな道を誇りをもって歩める者は、やはり幸せ者といえるだろう。

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ほんものの味を

今回は、町かどの藝能十周年記念誌に、創設者長田純先生が記載されました文章をご紹介致します。

「おにぎり」や「おむすび」が今日商品になって街中で売られている。
けれど、どれもこれも皆「おにぎり」で「おむすび」ではない。
日本中のそれを食べたわけではないが、商品としてとても「おむすび」は出来ないだろうと思う。

「おむすび」とは『結び』であって、ただ、「にぎっ」てかためたものとは違うのだ。だから「おむすび」は、両掌の中で「くる」っとまわして、「御飯つぶ」がお互いにしっかり「結び」合うように「まわしにぎり」するものなのである。
御飯と御飯がしっかり結びあってはじめて、お米のーー御飯の甘さ、おいしさが生まれてくるのだ。それを、手塩にかけ、食べる人に心を寄せかけてむすぶのである。これではじめて、心づくしの「おむすび」の味が生れてくるのだ。
この「おむすび」にする御飯ーーお米を、藁で炊きあげたら、これこそ今日なら最高の贅沢になるのかもしれぬ。併し、昔は、これが普通だった。
私も四十数年前、毎日藁で炊いた御飯をいただいたことがあるが、今もその味が忘れられない。ほんものの味だからである。
ガスや電気で炊くのは便利に違いないが、それでは「ほんもの」のお米の味は生きて来ない。一度機会があれば、藁炊きの御飯や「おむすび」を召し上がって、ほんとうのお米の味ーーほんものの味を味わっていただきたいと思う。
藁と云えば、鰹の「たたき」も藁火であぶり焼きしないと、ほんとうの「たたき」の味はないという。
藁が身を燃やして、魚の不要な匂いをとってしまうのである。流石、藁はお米の母、身を焼いてまで役に立とうとしてくれる。人はそれを「藁の匂いつけ」というがーー。
「町かどの藝能」は藁であり、藁炊き御飯の「おむすび」である。一つ一つは小さいかもしれぬが、「ほんもの」ばかりである。芯から味わっていただきたい。

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まもなく、春です。

春爛漫というには未だ少し早いが、木々の梢は緑に燃え立ち、桜たちはいつ開こうかとその時を待っている。
こうした自然界の春と共に、人間界の若者たちも、いよいよ社会人としての第一歩をふみ出そうとしている。胸いっぱいの希望をもって。
又、企業の方でも、若い新しい戦力の参加に大きな期待を寄せている。
希望と期待。実にいい関係である。
ところがそれが、ものの二・三ヶ月も経つと、「面接の時は明るくてハキハキしていたのに、いざ仕事がはじまると全く能動性がない。返事は悪いし、いわれた事しかしない。同じ失敗をくり返すし、一寸注意をすると黙りこむ。本当に扱いにくい」―― 。
「仕事が片づいてないのに早く帰れといわれる。それでいてきちんと仕事しろという。ろくすっぽ教えもしないで文句ばっかり。それもネチネチ、クドクド。いやになる」―― 。
こんな不協和音があちこちから聞こえてくる。
しかし、「会社に入ったら怠けてやろう。サボってやろう」そう思って入って来る新入社員はまずいない。
「新入社員が来たらいじめてやろう。つぶしてやろう」という上司もいないだろう。にもかかわらず、こんな軋轢が生じてくるのはどうしてだろう。
新人が仕事を能率よく処理出来ないのは慣れてないから。未熟だからである。自分では一生懸命やっているのだが、なかなか認めてもらえず、それどころか叱られてばかり。萎縮して動けなくなり、自信もなくなる。いきおい無口になるのも当然だろう。
又、本来、上司の注意というのは新人を育てる為の親心から出てくるものである。なんとか早く成長してほしい、戦力になってほしいと願う心が強ければ強いほど、注意する事もふえてくる。しつこくいうのは新人の態度が、解ったのか解らないのか、判らないからである。
お互いがほんの少しずつ、相手の立場を思いやれば、すぐわかることばかりなのだ。
この世の中、新入社員と上司に限らず、お互いが相手の立場をほんの少しでも思いやれば、トラブルはうんと少なくなるはずだ。
同じ人生、自分で選んだ仕事・道なら(例え理想通りではなかったとしても、最終的に選んだのは自分だから)、気持よく働き、誰とでも仲良く過ごす方が楽しいし、人生の意義もみつけられるのではないだろうか。

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聖天子

「鼓腹撃攘」という言葉がある。
古代中国の伝説上の聖天子、堯にまつわる物語で、人々が不安なく太平を楽しみ、満ち足りて暮すさまをいった言葉である。
堯は帝位につくと、ひたすら天を敬い人を愛し、民を慈しむ善政を行った。お陰で世の中は平和に治まり、穏やかな日々が続いた。
或る時、堯は「誰も何もいわないが、本当に世の中はちゃんと治まっているのだろうか」と、ふと不安になり、自分の眼で確かめようと、そっと町へ出かけた。

ある町かどで子供たちが歌っていた。「私たちがこうして幸せに暮らせるのは、みんな天子様のお陰」ーー。堯は喜んだ。だが「いやいや、これは子供のうたう歌にしては出来すぎだ。大人の教えた歌かも知れない」と、尚も町の中を歩き続けた。町はずれまで来ると一人の年老いたお百姓が道ばたに座り、たっぷり食べて鼓のようにふくらんだお腹をひたひたと打ち、大地をたたき乍ら歌っていた。「お天道さまが昇りゃあ起きて働き、日が沈みゃ眠る。井戸を掘って水を飲み、田を耕やしてたっぷりくらう。天子さまなど有っても無くても儂の暮しに変りはないさ」ーー。堯の心はいっぺんに晴れやかになった。「これでこそ本当だ、民人(たみびと)が何の不安もなく日々の暮しを楽しんでいる。これこそ、政治が善く行われている何よりの証だ」と、満ち足りた思いで王宮へ帰っていったという。
聖天子といわれるゆえんである。

昨今の世界の状勢を思う時、こんなことはまさに夢物語である。だが真理は永久に真理である。不変の真理を忘れて進歩はない。為政者たる者、心の片隅にでも、こんな物語を置いておいてくれないものか。

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2月

久佐伎波里月(くさきはりづき)、萌揺月(きさゆらぎづき)、衣更着月(きぬさらぎづき)、気更来月(きさらぎづき)、如月(じょげつ)ーー。
2月の異名は、いろいろありますが、「梅見月」のような、庶民にも馴染みのある名もあります。
寒中から健気に咲く梅を愛でる心は古く、万葉の頃の「花」といえば梅でした。華やかな宮廷文化の生まれた平安の頃から、次第に桜へと移って行きましたが、今も尚、梅を愛する人は多くおいでです。

梅にまつわる有名な鴬宿梅(おうしゅくばい)の話は、誰もがよく知るところですが、村上天皇の御代(947-967)、天皇がいたく愛でられていた清涼殿の紅梅が枯れてしまい、悲しんだ帝は代わりの梅をと都中を探しまわられたところ、西の京の辺りのお屋敷にそっくりの見事な紅梅があるのが見つかりました。直ちにその梅を差出すよう命じられ、梅は清涼殿へ移し変えられました。
ところが、その梅の枝に一首の歌が結んであったのです。

「勅なれば いともかしこし鶯(うぐいす)の

          宿はと問(と)はば いかがこたへむ」ーー。

胸を打たれた帝は、直ちにその梅を元の持主に返されたという、有名なお話です。
歌の主は紀内侍(きのないし)。
帝の仰せとはいえ、自らの愛する梅を差出す悲しみと帝へのささやかな抗議。そんな自分の意志を実に見事に和歌という文学を通して伝えてられます。しかも、いささかも相手の心を傷つけることなく。だからこそ帝も自らの非を覚り、ただちにお返しになったのでしょう。

人の心を傷つけずに、自分の意志を通すというのは、本当にむづかしいことです。それを、今よりはるかに身分制度も厳しかったであろう時代に、見事に通された紀内侍という女性。
何という聡明さ、そして教養の高さでしょう。
ともすれば声高に自己主張をすることが美徳のようにいわれる欧米的(?)思考の蔓延する今の日本に、こんな素晴らしい先人が居られることを、今少し識(し)り、考えてみてもいいのではないでしょうか。

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